改めて「
ガイアの法則 II」を読みました。
やや解説の多かった一巻に比べて、より感覚的な内容の二巻ですが、読み直すほどにわかりやすく、その内容も「ふだん忘れていたけれど、幼い頃からどこかで知っている」というようなことも書いてあり、腑に落ちることがたくさんあります。
・空間にはすべての人々の記憶が刻まれている集団記憶領域が存在する
・たとえば一万年前に村人100人が踊っていたシンボリックな舞踊があったとすると、それは物理次元を超えるコードとなる
すると、何が起こるか。。。。。
この超物理的コードを共有媒体とすると、今の私たちが一万年前の舞踊によって生まれた集団記憶領域にアクセスすることができるのです♪
す〜〜〜〜〜っと身体感覚として、とてもよくわかります^o^
太鼓の人類にとって舞踊とは、超物理的コードそのものであった
もう、参りました〜〜〜〜とでもいいたくなる一文です。ガイアの法則II おすすめです!
この感覚を実感としてとらえられたのは、もう10年ほど前になりますか。
レイキの伝授を受けたからだと思います。
私が受けたのは、海外から逆輸入されたレイキで、三段階を超えてさらにティーチャーの段階まで進んだのですが、今は全て捨ててしまってレイキは行っていません。
レイキはシンボルを空間に描きますので、実際に行ってみてその時、
「世界中でレイキを行うさまざまな人達が、このシンボルを使って、同じ空間にアクセスしているんだ」
という感覚を実感することができました。
と同時に、レイキを行う人にも様々な人がいることが容易に想像できました。
レイキのシンボルを「型」として、そのゲートからある特定の空間に、世界中のレイキを行う人たちのさまざまな想念が送り込まれ、ガイアの法則IIで書かれているところの「集団記憶領域」が生まれます。
だからそこにアクセスするということは、自分もそこに想念を流し込むということであり、逆に様々な人の雑多な想念を、レイキのシンボルを「型」として、自分がダウンロードしてしまうことにもなります。
すべてのレイキを行う人たちが、澄み切った心であれば、それは素晴らしい空間が創造されると思いますが、私は自分でレイキを行ってみて、その当時はレイキを行う人のなかには様々なレベル、様々な目的の人たちが混ざっていると感じていましたし、
この状態では逆に雑多な想念をダウンロードしてしまう可能性の方が大きいかもしれないと感じたので、レイキはすぱっと止めました。
上の、舞踊による空間へのアクセスと同じことですね^^
だから現代にも、その方法は息づいているわけですが、特定のスピリチュアルに興味のある人たちが一部で行っているだけで、昔のようにそれが文化として生活の一部になっているわけでもなく、毎日の意識にも、そのようなことは浮かんでこないのが今の私たちです。
いうなれば、お祭りの盆踊りにその残り香があるような感じなのかな〜〜〜〜?
真ん中に櫓が組まれ、そこから放射状に提灯が張られ、まあるく周りで踊る盆踊り。
「型」としての舞踊の記憶のカケラが、現代まで少〜〜〜〜し継承されている状態なのかもしれませんね^^
小さい頃から、舞踊は祈りであると感じていましたが、ただ祈るというよりこの本に書かれているように「集団記憶領域を想像する」という感覚にピタリと馴染むものがあります。
つまりそれが「祈り」であるわけなのですが、いま「祈り」という言葉は「お願いする」という言葉にすりかわってしまっているので、ニュアンスがちょっと違いますが^^
そこには時間の制約というものはないので、どの時代からでも同じ「型」で同じ領域にアクセスができるはずですね♪
古代の人たちも、その生まれ変わりかもしれない現代に肉体を持つ私たちも、同じ空間にアクセスして内容をダウンロードしたり上書きしたりできるわけです。時間は超えたところで。。。。
こういう感覚をふつうに生きることができれば、数世代前の人たちの獲得した認識をダウンロードして、さらに深めていくことができます。
そんなことが出来るのならば、私たちはどれだけ魂が深まり、進化をしていくことができるでしょうか。
与えられた人生は短く、やっと少しものが分かりかけた頃に肉体が老いて魂が離れていってしまい、次の世代はまた一から学びを深めていく努力をする文化よりも
先人たちの感覚をダウンロードし、その続きを深めていく文化のほうがよりふくらみのある文明を築いていくことができそうなんですが^^
ガイアの法則II まだまだ深いので、また折々に日記に書こうと思います♪